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瀬戸内海の離島「柱島群島」
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歴史年表(ふるさと学習資料 柱島読本より 抜粋)
西暦 年 和暦
1000頃~ 忽那(くつな)七島水軍の本拠地として栄えた。
1070 延久2 柱島氏の祖、藤原穂智(やすとも)没。(金蔵山中腹の柱島城跡に墓所)
1084 応徳1 藤原親賢が入島、忽那諸島と柱島群島の領主、開墾事業。
1174 治承1 平判官康頼、丹波少将成経の勧請により賀茂神社創建。
1184 寿永3 4月24日付の源頼下文案で賀茂別雷(かもわけいかずち)神社の42ヶ所の神領に対する狼籍停止を令し た中に「柱島」の島名初見。
1185 寿永4 壇ノ浦の戦い、平氏滅亡。
1185 文治1 平家の残党、柱島に避難。
1192 建久3 柱島海賊の全盛期(柱島俊澄、柱島俊宗)
1331 元弘1 柱五郎左衛門尉宗俊、柱島下野守義範が占領。
1334 建武1 伊予・河野水軍、備後・村上水軍と互角の勢力を誇る。
1340 延元5 水軍の拠点として重要、忽那七水軍の全盛期。
1346 正平1 柱島太郎左衛門尉藤原通秋、鹿児島で戦死。(南朝に殉ず)
1347 正平2 忽那下野法眼善範、伊予水軍の支配下、司令部を柱島城から来見館に移す。「柱島南城」のちに「柱南城」
1348 正平3 忽那下野法眼善範、南朝より地頭職と領家職に任命される。
1405 応永12 忽那七島水軍が河野氏の部下となる。
1555 弘治1 厳島合戦に参戦、来見義景戦死、柱島水軍の戦死者続出。
1555 弘治1 穂田元清の領有になる(大内氏の支配下)
1555 弘治1 桑原杢之助城主として入島、柱島南城に入る。
1555 弘治2 毛利氏進出、柱島水軍は毛利氏に編入。
1582 天正10 中臣弾正、河野水軍、能島水軍を経て柱島に隠居。(1584頃没)
1585 天正13 中臣小次郎、桑原氏を討ち新領主に。(能島村上氏-伊予村上能島水軍、中臣氏、柱島氏、柱氏)
1595 文禄1 柱島海賊水軍朝鮮に出動(豊臣秀吉の朝鮮出兵)
1598 慶長3 (村上水軍に所属?)「柱島42屋敷」水夫(主)。(来島村上氏-伊予来島村上水軍、中臣氏…能島水軍消滅)
1600 慶長5 毛利輝元防長両国を受領、吉川広家を岩国に分封、柱島は岩国藩領となる。(由宇代官の支配下)
1610 慶長15 吉川広家柱島を浄土真宗・誓光寺(柳井)の門徒とする。
1626 寛永3 真宗・見浪山善立寺(本派)建立。(永住3族-藤原氏、平氏、伊予水軍-3系統の寺)
1636 寛永13 柱島海賊水軍解体。(武士は百姓になり「地割」身分による土地分配) (庄屋中臣を中富と改姓)
1636 寛永13 賀茂大明神改修
1644 正保1 城南山西栄寺(真宗東派)を豪族中富氏が建立。
1726 享保11 国勢調査、(柱島の人口505人、家数89軒、牛18頭、船23隻、年貢は米、苫、塩で納めた。端島は人口83人、家数23軒、牛11頭、船1隻。黒島には人が住まず。)
1830 天保1 杉虎之助(吉田松陰)8月4日出生。
1838 天保9 松崎武人(赤禰武人)松崎三宅の長男として出生。(1月15日、広島県呉市下蒲刈島)
1851 嘉永4 松崎武人(赤禰武人)、遠崎妙円寺、僧月性に学ぶ。(時習館・清狂草堂)
1853 嘉永6 松崎武人(赤禰武人)、庄屋中富十兵衛(長女マキ)と養子縁組。
1856 安政3 中富武人、阿月の克己堂に学び、浦氏の家臣・赤禰雅平の養子となる。
1856 安政4 吉田松陰、松下村塾を開く。
1859 安政6 10月27日、吉田松陰、伝馬町の獄舎で斬首。
1862 文久2 高杉晋作・赤禰武人ら英国公使館を焼打ち。
1863 文久3 10月4日、赤禰武人、第三代奇兵隊総督。
1866 慶応2 1月25日、赤禰武人、山口出合河原で斬首。
1866 慶応2 陽明学者・
東沢瀉、栗栖天山と共に柱島に流罪。
1871 明治4 7月廃藩置県、11月山口県成立。
1943 昭和18 6月8日、日本海軍連合艦隊・戦艦「陸奥」が謎の爆沈。
2015 赤禰武人講座開催
2016 明治維新150年 「赤禰武人ゆかりの地」 案内板設置
柱島地名図
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